おしまいに

古代霊は語る
第十章 おしまいに


シルバー・バーチによる交霊会は正式の名称をハンネン・スワッハー・ホームサークルと言いましたが、その第一回が何年何月に開かれたのかは明らかでありません。公表されていないし、もしかしたら記録すらないかも知れません。
というのは霊媒のバーバネル氏は、その会があくまで私的な集まりだからという理由で、初めのころは霊言そのものの公表すら避けていたのです。
バーバネルという人は自分を表に出すことを徹底的に嫌った人で、その態度は七十九才で他界するまで変わりませんでした。
ところが真の意味で最良の親友だったハンネン・スワッハーは当時英国新聞界の法王とまで言われたほどの大物で、バーバネルとは対照的に、英国の著名人でスワッハーの名を知らない人はまずいないと言ってよいほどでした。
スワッハーはその知名度を利用して各界の名士を交霊会に招待し、また招待された方は相手がスワッハーとなると断わるわけにもいかず、かならず出席しました。
中には 「よし、オレがバーバネルのバケの皮をはがしてやる」とか、「シルバー・バーチとかいうインデアンをオレが徹底的に論破してやる」といった意気込みで乗り込んで来る連中もいたようですが、バーバネルが入紳してシルバー・バーチが語り始めると、その威厳ある雰囲気に圧倒されて、来た時の意気込みもどこへやら、すっかり感動して帰って行ったそうです。
こうしたバーバネルとスワッハーという対照的な性格のコンビは実にうまい取り合わせで、それにシルバー・バーチが加わった三人組(トリオ)は多分、いや間違いなく、二人の出生以前から組まれた計画だったと想像されます。
バーバネルなくしてはシルバー・バーチもあり得ず、スワッハーなくしては霊言集の出版もなかったはずです。
はじめ公表に消極的だったバーバネルをスワッハーが説き伏せて、霊言が『サイキック・ニューズ』紙に連載されるようになってほぼ半世紀が過ぎました。
そして私がその心霊紙で、霊視家によるシルバー・バーチの肖像画と共に初めて霊言に接して、一種異様な感動を覚えながら貪り読んで以来、三十年近い歳月が流れました。
そして一九八一年七月にバーバネル氏が急逝した時、私はこれでついにシルバー・バーチの霊言にもピリオドが打たれたかと思い、その心の拠りどころとして来ただけに残念無念さも一入(ヒトシオ)でした。
また、何か一つの大きな時代が終って自分一人が残されたような、言葉では形容しようのないさみしさをしみじみと味わったものでした。
が、その霊訓は霊言集として残されている。それを日本の有志の方々───シルバー・バーチの言う〝それを理解できるところまで来ている人々〟に紹介することが私の使命であるかも知れないという自覚が私の魂を鼓舞し続け、それが本稿となって実現しました。

シルバー・バーチ霊言集は延べにして二千ページ程度になります。それだけのものをこの程度のものにまとめてしまうのは、あるいは暴挙と言えるかも知れません。
しかしシルバー・バーチは単純で基本的な真理───いやしくも思考力を具えた者であれば老若男女のすべてが理解できる真理をくり返しくり返し説いたのであって、決して二千ページも要するほど難解な哲理を説いたのではありません。
私はこれまで紹介したものだけで十分シルバー・バーチの言わんとしていることは尽くしていると確信します。
願わくば読者諸氏が、シルバー・バーチが繰り返し繰り返し説いたごとく、それを繰り返し繰り返し味読されることを希望します。恩師の間部先生がよく、霊界の前売券を買っておきなさい、と言われたのを思い出します。
宗教とか信仰はどうかすると地上生活を忌避する方向に進みがちですが、スピリチュアリズムだけはむしろ、死後の存在を現実のものとして確信することによって、地上生活を人間らしく生きよう、
地上生活ならではの体験を存分に積んでおこう───楽しみもそして苦しみも───という積極的な生活態度を生んでくれます。それは〝前売券〟を手にしているという安心と自信が生んでくれる。間部氏はそういう意味で言われたのではないかと思うのです。
そしてそれが、図らずも、シルバー・バーチの訓えの中枢でもあります。
では最後にシルバー・バーチのしめくくりの霊言と神への祈りの言葉を紹介して本稿を閉じることにします。

「私はこうした形で私に出来る仕事の限界を、もとより十分承知しておりますが、同時に自分の力の強さと豊富さに自信をもっております。自分が偉いと思っているというのではありません。
私自身はいつも謙虚な気持です。本当の意味で謙虚なのです。というのは、私自身はただの道具に過ぎない───私をこの地上に派遣した神界のスピリット、すべてのエネルギーとインスピレーションを授けてくれる高級霊の道具にすぎないからです。
が私はその援助の全てを得て思う存分に仕事をさせてもらえる。その意味で私は自信に満ちていると言っているのです。
私一人ではまったく取るに足らぬ存在です。が、そのつまらぬ存在もこうして霊団をバックにすると、自信をもって語ることが出来ます。霊団が指示することを安心して語っていればよいのです。
威力と威厳にあふれたスピリットの集団なのです。進化の道程をはるかに高く昇った光り輝く存在です。人類全体の進化の指導に当たっている、真の意味で霊格の高いスピリットなのです。

私には出しゃばったことは許されません。ここまではしゃべってよいが、そこから先はしゃべってはいけない、といったことや、それは今は言ってはいけないとか、今こそ語れ、といった指示を受けます。
私たちの仕事にはきちんとしたパターンがあり、そのパターンを崩してはいけないことになっているのです。いけないという意味は、そのパターンで行こうという約束が出来ているということです。
私よりすぐれた叡知を具えたスピリットによって定められた一定のワクがあり、それを勝手に越えてはならないのです。
そのスピリットたちが地上経綸の全責任をあずかっているからです。そのスピリットの集団をあなた方がどう呼ぼうとかまいません。とにかく地上経綸の仕事において最終的な責任を負っている神庁の存在なのです。
私は時おり開かれる会議でその神庁の方々とお会い出来ることを無上の光栄に思っております。その会議で私がこれまでの成果を報告します。するとその方たちから、ここまではうまく行っているが、この点がいけない。だから次はこうしなさい、といった指図を受けるのです。
実はその神庁の上には別の神庁が存在し、さらにその上にも別の神庁が存在し、それらが連綿として無限の奥までつながっているのです。
神界というのはあなたがた人間が想像するよりはるかに広く深く組織された世界です。が地上経綸の仕事を実施するとなると、こうした小さな組織が必要となるのです。
私自身はまだまだ未熟で、決して地上の一般的凡人から遠くかけ離れた存在ではありません。私にはあなたがたの悩みがよくわかります。私はこの仕事を通じて地上生活を長く味わってまいりました。
あなたがた(列席者)お一人お一人と深くつながった生活を送り、抱えておられる悩みや苦しみに深く係わりあってきました。が、振り返ってみれば、何一つ克服できなかったものがないこともわかります。

私たちはひたすらに人類の向上の手助けをしてあげたいと願っています。私たちも含めて、これまでの人類が犯してきた過ちを二度と繰り返さないために、正しい霊的真理をお教えするためにやって来たのです。そこから正しい叡知を学び取り、内部に秘めた神性を開発するための一助としてほしい。
そうすれば地上生活がより自由でより豊かになり、同時に私たちの世界も、地上から送られてくる無知で何の備えも出来ていない厄介な未熟霊に悩まされることもなくなる。そう思って努力してまいりました。
私はいつも言うのです。私たちの仕事に協力してくれる人は理性と判断力と自由意志とを放棄しないでいただきたいと。私たちの仕事は協調を主眼としているのです。決して独裁者的な態度を取りたくありません。ロボットのようには扱いたくないのです。
死の淵を隔てていても、友愛の精神で結ばれたいのです。その友愛精神のもとに霊的知識の普及に協力し合い、何も知らずに迷い続ける人々の肉体と心と霊に自由をもたらしてあげたいと願っているのです。
語りかける霊がいかなる高級霊であっても、いかに偉大な霊であっても、その語る内容に反撥を感じ理性が納得しない時は、かまわず拒絶さなるがよろしい。人間には自由意志が与えられており、自分の責任において自由な選択が許されています。
私たちがあなたがたに代って生きてあげるわけにはまいりません。援助は致しましょう。指導もしてあげましょう。心の支えにもなってあげましょう。が、あなた方が為すべきことまで私たちが肩がわりしてあげるわけにはいかないのです。
スピリットの中には自らの意志で地上救済の仕事を買って出る者がいます。またそうした仕事に携われる段階まで霊格が発達した者が神庁から申しつけられることもあります。私がその一人でした。私は自ら買って出た口ではないのです。が依頼された時は快く引き受けました。
引き受けた当初、地上の状態はまさにお先まっ暗という感じでした。困難が山積しておりました。がそれも今では大部分が取り除かれました。まだまだ困難は残っておりますが、取り除かれたものに比べれば物の数ではありません。
私たちの願いはあなた方に生き甲斐ある人生を送ってもらいたい───持てる知能と技能と天賦の才とを存分に発揮させてあげたい。そうすることが地上に生を享けた真の目的を成就することにつながり、死と共に始まる次の段階の生活に備えることにもなる。そう願っているのです。
こちらでは霊性がすべてを決します。霊的自我こそ全てを律する実在なのです。そこでは仮面も見せかけも逃げ口上もごまかしもききません。すべてが知れてしまうのです。
私に対する感謝は無用です。感謝は神に捧げるべきものです。私どもはその神の僕にすぎません。神の仕事を推進しているだけです。よろこびと楽しみを持ってこの仕事に携わってまいりました。もしも私の語ったことがあなたがたに何かの力となったとすれば、それは私が神の摂理を語っているからにほかなりません。

あなたがたは、ついぞ、私の姿をご覧になりませんでした。この霊媒の口を使って語る声でしか私をご存知ないわけです。が信じて下さい。私も物事を感じ、知り、そして愛することの出来る能力を具えた実在の人間です。
こちらの世界こそ実在の世界であり、地上は実在の世界ではないのです。そのことは地上という惑星を離れるまでは理解できないことかも知れません。
では最後に皆さんと共に、こうして死の淵を隔てた二つの世界の者が、幾多の障害をのり超えて、霊と霊、心と心で一体に結ばれる機会を得たことに対し、神に感謝の祈りを捧げましょう。
神よ、忝(カタジケナ)くもあなたは私たちに御力の証を授け給い、私たちが睦み合い求め合って魂に宿れる御力を発揮することを得さしめ給いました。あなたを求めて数知れぬ御子らが無数の曲りくねった道をさ迷っております。
幸いにも御心を知り得た私たちは、切望する御子らにそれを知らしめんと努力いたしております。願わくはその志を佳しとされ、限りなき御手の存在を知らしめ給い、温かき御胸こそ魂の憩の場となることを知らしめ給わんことを。
では神の御恵みの多からんことを。」

シルバーバーチ

   

 あとがき

シルバー・バーチとバーバネルに関しては、本文と 「遺稿」で十分紹介されていると思うので、ここで改めて付け加えることは何もない。
 そこで最後に私とシルバー・バーチとの出会いと、その霊言をこうした形で紹介するに至った経緯について述べておきたい。
そもそも私がシルバー・バーチ霊言集に接したのは大学二年の時だった。当時 (昭和三十年頃)、東京には日本心霊科学協会のほかにもう一つ、浅野和三郎氏の系統を受け継いだ心霊科学研究会というのがあった(現状については寡聞にしてよく知らない)。
ある日、別にこれといった目的もなしに事務所を訪ねたところ、月刊雑誌 「心霊と人生」 主幹の脇長生氏が私が英文科生であることを知って 「サイキックニューズ」 という英字新聞を手渡し、これを持って帰って何かいい記事があったら訳してみてくれないかと言う。
言われるまま下宿に帰ってからページをめくっているうちに、例のインデアンの肖像画とともにシルバー・バーチの霊言が目についた。
その肖像画から受けた印象は、それまで西部劇映画などから受けていたインデアンの印象とはまったく違った、一種名状しがたい威厳と叡智に満ちた賢人のそれだった。
霊言の英文を一層その感を深くした私は、これを訳したいとも思ったが、当時のお粗末な英語力ではとても自信がなく、何かほかの簡単な心霊現象に関する記事を訳し、それが 「心霊と人生」 に載って感激したのを憶えている。それが私にとって最初の翻訳であり、活字になったのもそれが最初だった。
しかし印象という点ではその時に受けたシルバー・バーチの印象の方がよほど強烈で、その後ずっと忘れられず、サイキックニューズ社から次々と霊言集を取り寄せることになる。
最初に届いた Teachings of Silver Birch (一九三八年発行)は果たして何度読み返したか知らないが、とにかく余ほど読み返したに相違いないことは、ページが全部バラバラになってしまっていることからも窺える。
また至るところに見られる赤鉛筆による下線部分を読むと、当時の私がどんなことに悩んでいたか、何を知りたがっていたかが判って興味ぶかい。
とにかくシルバー・バーチとの出会いは私の思想と人生を方向づける決定的な意味をもつものであった。僭越かも知れないが、シルバー・バーチはバーバネルの支配霊であったと同時に私の精神的指導霊でもあったと表現して、あながち間違いではないかと思ってるほどである。
さて、その出会いから四半世紀後の一九八〇年八月末のことであったが、福岡の手島逸郎氏 (日本心霊科学協会評議員) から、福岡支部で発行している 「心霊月報」 に何か寄稿してほしいとの依頼があった。その依頼の手紙を読み終えたとたんに 「シルバー・バーチ」 の名が浮かび、ずっと脳裏から離れなかった。
そしてさっそく九月から霊言集の翻訳と編纂に取りかかったのであるが、十月に入った頃から、ふと、英国へ行ってみようかという気になり、それが日増しに強くなっていき、十月末ごろにはすでに行くことに決めて準備に取りかかっていた。
準備には渡航のための準備もあったが、もっと大切なこととして、バーバネル氏やテスター氏といった、向うで是非会うべき人々との面会の日程を組むために先方の都合を聞かねばならない。同時に私は高校生対象の英語塾を開いている関係で、冬休みか夏休みにしか行けない。
どっちにしようかと迷ったが、とにかく気が急くので冬休みを選んだ。本文でも言及したが、もしも翌年の夏休みにしていたら、この世でバーバネル氏に会うことはなかったことになる。私の背後霊が急がせたわけもあとで納得がいった。
バーバネル氏に会ったことで霊言集の翻訳に拍車がかかったことは言うまでもない。「心霊月報」 は四、五回連載したところで都合で休刊となったが、私の筆は自分でも不思議なほど渉るので、発表の場を日本心霊科学協会の 「心霊研究」 に移して、もう一度最初から連載していただいた。
(当時の編集主幹梅原伸太郎氏の理解と積極的好意に対し、ここに深甚なる謝意を表したい。それなくしては私の筆はその時点で挫折していたかも知れない。)
バーバネル氏の訃報が入ったのはその頃だった。梅原氏の要請で 「モーリス・バーバネル氏を偲んで」 と題する一文を書いたが、その結びの節で私はこう述べた。
 
「それにしても、ほぼ半世紀にわたって脈々と続いてきたシルバー・バーチの霊言がこれでついに途絶えるのかと思うと、学生時代から四半世紀にわたって愛読してきた私には、ただ惜しいという気持とは別に、何か一つ大きな時代が去ったような心細い感慨が、ひしひしと身に沁みるような思いがいたします。」
もちろんこれは私の人間としての感慨である。バーバネルほどの人物に哀悼の念など贈る必要はない。そもそもシルバー・バーチは霊界の人間であり、バーバネルも今そこへ逝った。地上での使命が終わってホッとしていることだろう。
私もいずれはそこへ行く日が来る。そして多分バーバネルに、そして若しかしたらシルバー・バーチにも会えるかもしれない。その時に、〝よくぞやってくれた〟と言われたい。
そう言われるような仕事を残したい。私はそんな気持を抱えながら本稿の執筆を続け、どうにか、まる二年を掛けて仕上げたのだった。
いま、その全十一巻を一冊の本にまとめ上げて、何という無謀なことをしたのだろうという、あたかも過ちを犯してしまった時のような気持がふと湧くことがある。
が、何度も説明してきたようにシルバー・バーチは決して難解な哲学を延々と説き続けたのではない。誰れにでも理解できる平凡な霊的真理を平易な言葉で繰り返し繰り返し説いてきたのである。私は決して弁解して言うのではなく、私の理解力の範囲で確信して言うが、シルバー・バーチの説かんとしたことは本書が一応その全てを尽くしていると考えていただいて結構である。
むしろ私が真に恐れているのは、シルバー・バーチの流麗なる文体と、その後聞くことを得た生の声が伝える威厳に満ちた雰囲気を、果たして私の訳文がどこまで伝え得たかということである。
が、これに対する答えはきわめて明瞭である。満足のいくほど十分に伝え得たはずはまずない。何となれば私はまだ五十そこそこの地上の人間であり、シルバー・バーチは三千年を生きた霊界のはるか上層部のスピリットだからだ。
願わくは、拙い私の拙い翻訳から、その雰囲気の何分の一かでも読み取っていただければと思う。同時にシルバー・バーチの霊言の中に、他の何ものからも得られなかった新たな教訓を発見され、あるいは生きる勇気を鼓舞され、さらには霊的真理を知るよろこびを味わっていただければ、まる二年を掛けた私の努力も無駄でなかったという慰めを得ることが出来る。少なくとも私は終始そう祈りながら執筆したことを付記しておきたい。

ちなみに本書の原典となった霊言集(ほとんどのものが絶版)は次の通りである。

 Teachings of Silver Birch  (1938) 
 Silver Birch Speaks (1949) 
  Silver Birch Anthology (1955)  
  Guidance from Silver Birch (1966) 
  More Philosophy of Silver Birch (1979) 
  Light from Silver Birch (1983) 
  More Teachings of Silver Birch (1941)
  Wisdom of Silver Birch (1944)   
  More Wisdom of Silver Birch (1945)
  Silver Birch Speaks Again (1952)
  Philosophy of Silver Birch (1969) 
  Psychic Press Ltd.、 London

  
 
●遺稿  
シルバー・バーチと私 モーリス・バーバネル 
                     近藤千雄 訳

私と心霊との係わりあいは前世にまで遡ると聞いている。もちろん私には前世の記憶はない。エステル・ロバーツ女史の支配霊であるレッドクラウドは死後存続の決定的証拠を見せつけてくれた恩人であり、その交霊会において 「サイキック・ニューズ」 紙発刊の決定が為されたのであるが、そのレッドクラウドの話によると、私は、こんど生まれたらスピリチュアリズムの普及に生涯を捧げるとの約束をしたそうである。
私の記憶によればスピリチュアリズムなるものを初めて知ったのは、ロンドン東部地区で催されていた文人による社交クラブで無報酬の幹事をしていた十八才の時のことで、およそドラマチックとは言えない事がきっかけとなった。
クラブでの私の役目は二つあった。一つは著名な文人や芸術家を招待し、さまざまな話題について無報酬で講演してもらうことで、これをどうにか大過なくやりこなしていた。それは多分にその名士たちが、ロンドンで最も暗いと言われる東部地区でそういうシャレた催しがあることに興味をそそられたからであろう。
私のもう一つの役目は、講演の内容のいかんに係わらず、私がそれに反論することによってディスカッションへと発展させていくことで、いつも同僚が、なかなかやるじゃないかと私のことを褒めてくれていた。
実はその頃、数人の友人が私を交霊会なるものに招待してくれたことがあった。もちろん初めてのことで、私は大真面目で出席した。ところが終って初めて、それが私をからかうための悪ふざけであったことを知らされた。
そんなこともあって、たとえ冗談とは言え、十代の私は非常に不愉快な思いをさせられ、潜在意識的にはスピリチュアリズムに対し、むしろ反感を抱いていた。
同時にその頃の私は他の多くの若者と同様、すでに伝統的宗教に背を向けていた。
母親は信心深い女だったが、父親は無神論者で、母親が教会での儀式に一人で出席するのはみっともないからぜひ同伴してほしいと嘆願しても、頑として聞かなかった。二人が宗教の是非について議論するのを、小さい頃からずいぶん聞かされた。
理屈の上では必ずと言ってよいほど父の方が母をやり込めていたので、私は次第に無神論に傾き、それから更に不可知論へと変わって行った。
こうしたことを述べたのは、次に述べるその社交クラブでの出来事を理解していただく上で、その背景として必要だと考えたからである。
ある夜、これといって名の知れた講演者のいない日があった。そこでヘンリー・サンダースという青年がしゃべることになった。彼はスピリチュアリズムについて、彼自身の体験に基づいて話をした。終ると私の同僚が私の方を向いて、例によって反論するよう合図を送った。
ところが、自分でも不思議なのだが、つい最近ニセの交霊会で不愉快な思いをさせられたばかりなのに、その日の私はなぜか反論する気がせず、こうした問題にはそれなりの体験がなくてはならないと述べ、従ってそれをまったく持ち合わせない私の意見では価値がないと思う、と言った。これには出席者一同、驚いたようだった。当然のことながら、その夜は白熱した議論のないまま散会した。
終わるとサンダース氏が私に近づいて来て、〝調査研究の体験のない人間には意見を述べる資格はないとのご意見は、あれは本気でおっしゃったのでしょうか。もしも本気でおっしゃったのなら、ご自分でスピリチュアリズムを勉強なさる用意がおありですか〟 と尋ねた。
〝ええ〟 私はついそう返事をしてしまった。しかし〝結論を出すまで六か月の期間がいると思います〟 と付け加えた。日記をめくってみると、その六ヶ月が終わる日付がちゃんと記入してある。もっとも、それから半世紀たった今もなお研究中だが・・・・・・
そのことがきっかけで、サンダース氏は私を近くで開かれているホームサークルへ招待してくれた。定められた日時に、私は、当時婚約中で現在妻となっているシルビアを伴って出席した。行ってみると、ひどくむさ苦しいところで、集まっているのはユダヤ人ばかりだった。
若い者も老人もいる。あまり好感はもてなかったが、まじめな集会であることは確かだった。
霊媒はブロースタインという中年の女性だった。その女性が入神状態に入り、その口を借りていろんな国籍の霊がしゃべるのだと聞いていた。そして事実そういう現象が起きた。が、私には何の感慨もなかった。
少なくとも私の見るかぎりでは、彼女の口を借りてしゃべっているのが〝死者〟である、ということを得心させる証拠は何一つ見当らなかった。
しかし私には六ヶ月間勉強するという約束がある。そこで再び同じ交霊会に出席して、同じような現象を見た。ところが会が始まって間もなく、退屈からか疲労からか、私はうっかり 〝居眠り〟をしてしまった。目を覚ますと私はあわてて非礼を詫びた。
ところが驚いたことに、その 〝居眠り〟 をしている間、 私がレッド・インデアンになっていたことを聞かされた。
それが私の最初の霊媒的入神だった。何をしゃべったかは自分にはまったく分からない。が、聞いたところでは、シルバー・バーチと名告る霊が、ハスキーでノドの奥から出るような声で、少しだけしゃべったという。
その後現在に至るまで、大勢の方々に聞いていただいている。地味ながら人の心に訴える (と皆さんが言って下さる) 響きとは似ても似つかぬものだったらしい。
しかし、そのことがきっかけで、私を霊媒とするホームサークルができた。シルバー・バーチも、回を重ねるごとに私の身体のコントロールがうまくなっていった。
コントロールするということは、シルバー・バーチの個性と私の個性とが融合することであるが、それがピッタリうまく行くようになるまでには、何段階もの意識上の変化を体験した。
始めのうち私は入神状態にあまり好感を抱かなかった。それは多分に、私の身体を使っての言動が私自身に分らないのは不当だ、という生意気な考えのせいであったろう。
ところが、ある時こんな体験をさせられた。交霊会を終ってベッドに横になっていた時のことである。眼前に映画のスクリーンのようなものが広がり、その上にその日の会の様子が音声つまり私の霊言とともに、ビデオのように映し出されたのである。そんなことがその後もしばしば起きた。
が、今はもう見なくなった。それは他ならぬハンネン・スワッハーの登場のせいである。著名なジャーナリストだったスワッハーも、当時からスピリチュアリズムに彼なりの理解があり、私は彼と三年ばかり、週末を利用して英国中を講演してまわったことがある。
延べにして二十五万人に講演した計算になる。一日に三回も講演したこともある。こうしたことで二人の間は密接不離なものになっていった。
二人は土曜日の朝ロンドンをいつも車で発った。そして月曜日の早朝に帰ることもしばしばだった。私は当時商売をしていたので、交霊会は週末にしか開けなかった。もっともその商売も、一九三二年に心霊新聞 『サイキック・ニューズ』を発行するようになって、事実上廃業した。それからスワッハーとの関係が別の形をとり始めた。
彼は私の入神現象に非常な関心を示すようになり、シルバー・バーチをえらく気に入り始めた。そして、これほどの霊訓をひとにぎりの人間しか聞けないのは勿体ない話だ、と言い出した。元来が宣伝ずきの男なので、それをできるだけの大勢の人に分けてあげるべきだと考え、『サイキック・ニューズ』 紙に連載するのが一ばん得策だという考えを示した。
始め私は反対した。自分が編集している新聞に自分の霊現象の記事を載せるのはまずい、というのが私の当然の理由だった。しかし、ずいぶん議論したあげくに、私が霊媒であることを公表しないことを条件に、私もついに同意した。
が、もう一つ問題があった。現在シルバー・バーチと呼んでいる支配霊は、当初は別のニック・ネームで呼ばれていて、それは公的な場で使用するには不適当なので、支配霊自身に何かいい呼び名を考えてもらわねばならなくなった。
そこで選ばれたのが 「シルバー・バーチ」 (Silver Birch) だった。不思議なことに、そう決まった翌朝、私の事務所にスコットランドから氏名も住所もない一通の封書が届き、開けてみると銀色の樺の木(シルバーバーチ)の絵はがきが入っていた。
その頃から私の交霊会は、 「ハンネン・スワッハー・ホームサークル」 と呼ばれるようになり、スワッハー亡きあと今なおそう呼ばれているが、同時にその会での霊言が 『サイキック・ニューズ』 紙に毎週定期的に掲載されるようになった。当然のことながら、霊媒は一体誰かという詮索がしきりに為されたが、かなりの期間秘密にされていた。
しかし顔の広いスワッハーが次々と著名人を招待するので、私はいつまでも隠し通せるものではないと観念し、ある日を期して、ついに事実を公表する記事を掲載したのだった。
ついでに述べておくが、製菓工場で働いていると甘いものが欲しくなくなるのと同じで、長いあいだ編集の仕事をしていると、名前が知れるということについて、一般の人が抱いているほどの魅力は感じなくなるものである。
シルバー・バーチの霊言は、二人の速記者によって記録された。最初は当時私の編集助手をしてくれていたビリー・オースチンで、その後フランシス・ムーアという女性に引き継がれ、今に至っている。シルバー・バーチは彼女のことをいつも、the scribe (書記)と呼んでいた。
 
テープにも何回か収録されたことがある。今でもカセットが発売されている。一度レコード盤が発売されたこともあった。いずれにせよ、会の全てが記録されるようになってから、例のベッドで交霊会の様子をビデオのように見せるのは大変なエネルギーの消耗になるから止めにしたい、のとシルバー・バーチからの要請があり、私もそれに同意した。
 私が本当に入神しているか否かをテストするために、シルバー・バーチが私の肌にピンを突きさしてみるように言ったことがある。血が流れ出たらしいが、私は少しも痛みを感じなかった。
心霊研究家と称する人の中には、われわれが背後霊とか支配霊とか呼んでいる霊魂(スピリット)のことを、霊媒の別の人格にすぎないと主張する人がいる。私も入神現象にはいろいろと問題が多いことは百も承知している。
問題の生じる根本原因は、スピリットが霊媒の潜在意識を使用しなければならないことにある。霊媒は機能的には電話のようなものかも知れないが、電話と違ってこちらは生きものなのである。従ってある程度はその潜在意識によって通信内容が着色されることは避けられない。
霊媒現象が発達するということは、取りも直さずスピリットがこの潜在意識をより完全に支配できるようになることを意味するのである。
仕事柄、私は毎日のように文章を書いている。が、自分の書いたものをあとで読んで満足できたためしがない。単語なり句なり文章なりを、どこか書き改める必要があるのである。ところが、シルバー・バーチの霊言にはそれがない。
コンマやセミコロン、ピリオド等をこちらで適当に書き込むほかは、一点の非の打ちどころもないのである。それに加えてもう一つ興味深いのは、その文章の中に私が普段まず使用しないような古語が時おり混ざっていることである。
 シルバー・バーチが (霊的なつながりはあっても) 私とまったくの別人であることを、私と妻のシルビアに対して証明してくれたことが何度かあった。中でも一番歴然としたものが初期のころにあった。
ある時シルバー・バーチがシルビアに向って、〝あなたがたが解決不可能と思っておられる問題に、決定的な解答を授けましょう〟 と約束したことがあった。
当時私たち夫婦は、直接談話霊媒として有名なエステル・ロバーツ女史の交霊会に毎週のように出席していたのであるが、シルバー・バーチは、次のロバーツ女史の交霊会でメガホンを通してシルビアにかくかくしかじかの言葉で話しかけましょう、と言ったのである。
むろんロバーツ女史はそのことについては何も知らない。どんなことになるか、私たちはその日が待遠しくて仕方がなかった。いよいよその日の交霊会が始まった時、支配霊のレッドクラウドが冒頭の挨拶の中で、私たち夫婦しか知らないはずの事柄に言及したことから、レッドクラウドはすでに事情を知っているとの察しがついた。
交霊会の演出に天才的なうまさを発揮するレッドクラウドは、そのことを交霊会の終るぎりぎりまで隠しておいて、わざとわれわれ夫婦を焦らせた。そしていよいよ最後になってシルビアに向い、次の通信者はあなたに用があるそうです、と言った。
暗闇の中で、蛍光塗料を輝かせながらメガホンがシルビアの前にやってきた。そしてその奥から、紛れもないシルバー・バーチの声がしてきた。間違いなく約束した通りの言葉だった。
もう一人、これは職業霊媒ではないが、同じく直接談話を得意とする二ーナ・メイヤー女史の交霊会でも、度々シルバー・バーチが出現して、独立した存在であることを証明してくれた。
私の身体を使ってしゃべったシルバー・バーチが、こんどはメガホンで私に話しかけるのを聞くのは、私にとっては何とも曰く言い難い、興味ある体験だった。
ほかにも挙げようと思えば幾つでも挙げられるが、あと一つで十分であろう。私の知り合いの、ある新聞社の編集者が世界大戦でご子息を亡くされ、私は気の毒でならないので、ロバーツ女史に、交霊会に招待してあげてほしいとお願いした。名前は匿しておいた。が、女史は、それは結構ですがレッドクラウドの許可を得てほしいと言う。
そこで私は、では次の交霊会で私からお願いしてみますと言っておいた。ところがそのすぐ翌日、ロバーツ女史から電話が掛かり、昨日シルバー・バーチが現われて、是非その編集者を招待してやってほしいと頼んだというのである。
ロバーツ女史はその依頼に応じて、編集者夫妻を次の交霊会に招待した。戦死した息子さんが両親と 〝声の対面〟 をしたことは言うまでもない。









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