宗教

シルバーバーチの霊訓 十二
十章 宗教


(1)

地上では〝宗教に帰れ〟という呼びかけがあるそうですが、真の宗教とは同胞に奉仕することによって大霊すなわち神に奉仕することです。
そのためには殿堂も牧師も僧侶も聖典もいりません。そうしたものは奉仕の精神を植えつけ同胞への愛の心を強めることにならないかぎり何の意味もありません。いつどこにいても人のために役立つことをなさい。同胞の重荷を軽くしてあげることをなさい。それが宗教です。

(2)

人のためになることであれば、どんなことでもよろしい。転んだ人の手を取ってあげることでも、勇気づけの言葉を掛けてあげることでもよろしい。霊的なものに係わることでなくてもよいのです。
物的なことであっても、それが相手の人にとって意義のあることであり、あなたもそれを嫌々ながらでなく気持ちよくしてあげるのであれば、それは立派に神の道具としての役目を果たしたことになります。

(3)

しょせん人間は同胞に奉仕することによって大霊に奉仕する以外に、大霊への協力の道はないのです。地上には政治学、経済学、社会学といった立派そうな名称やラベルをつけた分野があり、それが勿体つけて説かれておりますが、どれもこれも、しょせんは言葉の遊戯に過ぎません。
私に言わせれば service(サービス)の一語ですべてが片付くのです。人のために役立つことをする───それが宗教です。

(4)

サービスの真意を理解した人こそ私は偉大な人物とみなします。霊的自我の発見を目的とする人たちだけの話ではありません。極貧の人たちを救うこと、病の苦しみを取り除いてあげること、不正や横暴と闘うこと、憎悪と闘うこと、自由を守ること、害悪を取り除き、人間の霊性が神の意図された通りに発揮できるチャンスを用意してあげること───こうしたこともみなサービスです。

(5)

相手が立派な地位にある人であろうと、平々凡々の庶民であろうと、そんなことはどうでもよろしい。とにかく一個の魂を立ち上がらせ、暗闇にいる人に光をもたらし、無知の牢獄にいる人を解放してあげ、お腹を空かしている人を満たしてあげ、渇いたのどを潤してあげ、争いごとを止めさせてあげることができれば、あなたは立派に大霊に協力していることになるのです。

(6)

あなた方一人ひとりが大霊の一部であることを忘れてはなりません。一人ひとりが大霊の仕事に貢献し、大霊の力と愛と知識を地上へもたらすことができるのです。自分より恵まれない人のために力を貸そうと努力する時、大霊の力がみなさんを通して顕現するのです。どの分野でもよろしい。
どこの誰でもよろしい。意気消沈している人を元気づけ、弱った人に手を貸し、暗闇の中に明かりをもたらし、空腹の人に食べるものを与え、身を横たえる所さえない人に安らかな眠りの場を提供してあげれば、それが大霊に協力するゆえんとなります。

(7)

神の働きに何か特別なわくがあって、特殊な経路でしかその恩恵がもたらされないかに考える傾向がありますが、神の力はそれを受け取る波長を持つ人なら誰にでも与えられるものです。要するに神の御心に適った心掛けがカギです。
地上的名声も社会的地位も、肌の色も人種も、国家も階級も関係ありません。どこであろうと、誰であろうと、神の御心に適った人は真の大源から力を授かり、心が啓発され、魂が鼓舞され、造化の仕事に参加させてもらえるのです。

(8)

聖書(バイブル)もなかなか立派な本です。が、もっと立派な本があります。森羅万象がそれです。大霊の摂理によって維持されている大自然の営みです。地上のいかなる書物、それがいかに部厚いものであっても、いかに敬われているものであっても、いかに神聖視されているものであっても、その大自然が教えてくれるものに較べれば、物の数ではありません。

(9)

そこで私たちは大自然の摂理、それだけを説くのです。それをスピリチュアリズムと呼ぼうと何と呼ぼうと、要するにそれが大霊の法則であり、目に見える見えないに関わりなく、生命活動が営まれているあらゆる界層を通じて働いていることを理解していらっしゃれば、それでいいのです。

(10)

宗教界の学者は宗教というものを不可解きわまる一大神秘───難解な用語と教義による上部構造を築き上げ、それが難問と困惑と混乱を生んでおります。しかし宗教の本質、生命の本能的欲求はサービスの一語に尽きます。

(11)

サービス、すなわち自分を忘れて人のために役立つことをしようとする心は、大霊の心にほかなりません。今こそ地上世界にはこのサービスの精神が必要です。私たちがこうして説きそしてみずから実行しているのはそのためです。地上界の靄と暗黒、疑念と不安、悲しみと闘争、苦難と苦痛の背後には永遠の目的があります。それを一つでも多く理解するように努力してください。

(12)

神の存在を信じ、神を讃美する教説を朗読し讃美歌をうたい、日曜日にはきちんと礼拝に出席しているからといって、それだけで霊性が一ミリたりとも伸びるわけではありません。それは他人への思いやりの心を鼓舞して、暗闇の生活から光明の生活へと導いてあげる行為を実践させる、その手段と考えるべきです。

(13)

大切なのはあなたの〝行い〟です。そして他のことは信じなくてもこれだけはぜひ信じて下さい───たった一つの魂を光明へ導いてあげたら、あるいは飢えに苦しむ人に食を与え、のどの渇きに苦しむ人に飲み水を与えたら、あるいは又、肩の重荷を軽くしてあげ、足元の石ころを取り除いてあげたら、それだけで地上の全財産にも勝る大切なことをしたことになるのです。

(14)

いかなる教義も魂を拘束します。教義を守るから立派になるのではありません。教義を守らなくても立派になれるのです。人間は教義の名のもとに戦争を仕掛け、教義の名のもとに異教徒を焼き殺してきました。
魂を束縛するもの、精神の手かせ足かせとなるもの、霊性の自由な発現を妨げるものは、いかなるものであっても取り除かねばなりません。
 

(15) 

私がキリスト教に我慢ならないのは、みずから用意した真理普及の場(教会・礼拝堂等)において、すでに地上に啓示されている肝心の霊的真理を説こうとしないからです。言いかえればキリスト教と銘うちながら肝心のキリストを裏切るようなことばかりしているからです。
神の座に祭り上げてしまって、人類が模範としようにも、もはや手の届かない、遥か彼方の天国へ連れて行ってしまっております。それが我慢ならないのです。

(16)

私は牧師になって神に奉仕しようと心掛ける多くの殊勝な人たちを批難しているのではありません。その中には偉大な魂の持ち主が大勢います。私が批難するのは真理にとって為にならない組織、使い古された意味のない教義を相変わらず後生大事にして、生き生きとした霊力の発揮される場を無くしている、その体制です。

(17)

教義・ドグマ・教条・儀式・ステンドグラス・祭壇・法冠・コープ(儀式用マント)───こうしたものが宗教とどういう関係があるというのでしょうか。宗教とは霊性に係わることです。全存在に内在する霊性です。それが千変万化の律動と形態の中で顕現しています。
大自然の営みにも、理想に燃えた指導者や社会革命家の努力にも、それが顕現しているのです。それが教条とどういう関係があるというのでしょう。

(18)

私は時おり〝霊界からの高等な教え〟とやらばかりを欲しがって自分は隣人・同胞のために何一つ役に立つことをしない人たちに嫌気がさすことがあります。教えに〝高等〟も〝低級〟もありません。成長するにつれて神の摂理の働きをより深く理解していくのです。
難解な教えを騒ぎ求めている人たちが、そんなことを止めて地上を少しでも住み良い場所、明るい場所───空腹を抱えた人が飢えを満たし、のどを乾かした人が飲み水にありつき、貧しい人たちがその疲れた身体を横たえる家を得て神の恩恵に浴せるようにしてあげれば、それこそ〝最高の教え〟を実践していることになるのです。

(19)

教義による束縛は地上世界の病苦の一つです。疾病よりも大きな害悪をもたらします。身体上の病気による苦痛など物の数ではありません。なぜなら、それは魂の病気だからです。霊に〝目隠し〟をしてしまうのです。

(20)

人間はなぜか、神の叡智を見えなくする教義に好んでしがみつきます。不思議なことに、牢の中に閉じこめられている方が幸せと思う人がいます。自由とは、自由の有難さが分かった者だけが手にできるものです。

(21)

私は教義も儀式も作法も説きません。神の愛が子等を通して顕現しようとしている事実だけを説きます。いかなる書物や巻き物、ドグマ、特定の指導者や権威、あるいは学識さえも絶対と思ってはなりません。聖遺物を信仰の対象としてはなりません。神の摂理に従うことだけを心掛ければよいのです。それが宇宙で最も大切なものだからです。それが唯一絶対の権威なのです。

(22)

宗教的建造物には過去の無知な時代の産物に過ぎないものがたくさんあります。神はいかなる建造物の中にも閉じ込められません。神はどこにでも遍く存在しているのです。
石を積み重ね、高い尖塔を立て、ステンドグラスの窓を取り付ければ神が喜ばれると思っているようですが、そんなものよりも、太陽の恵みが子等の心を明るく照らし、雨が作物を実らせることの方が、神はよほど喜ばれます。
ところが、そうした恵みと子等との間にとかく宗教家と政治家と商売人が介在します。こうしたものこそ取り除かねばなりません。今それが次々と取り除かれつつあります。

(23)

霊力の地上への働きかけを過去の話と考えてはいけません。過去の霊覚者を通して働いた霊力が今まさにこうした形で働きかけていることを理解しないといけません。当時の宗教家がその霊力を目の敵にして悪魔の仕業であると決め付けたのと同じように、今日の宗教家はそれとまったく同じ霊力が今まさに働いている事実を認めようとしません。しかし、地上世界もその後進歩したようです。もはや磔刑の手段には出ないからです。

(24)

私たちのことを悪魔の福音を説く者と非難する人たちは、二千年前にイエスに対して同じ非難を浴びせた者たちと同列です。私たちはイエスを通して働きかけた大霊の霊力と同じものを携え、同じ霊現象を演出し、そして同じメッセージを説く者です。
すなわち喪の悲しみにある人を慰め、病の人を癒やし、暗闇の中にいる人に光明をもたらし、人生に疲れた人には生きる意欲を持たせ、無知の中で模索している人に知識を授けてあげましょう、ということです。

(25)

物質の世界に存在するもの───それが物であろうと人間であろうと、又その人がいかに高い地位にあろうと、それを信仰の対象としてはなりません。物質の世界の彼方にあるものへ目を向けなさい。

(26) 

私という一個の霊、ただのメッセンジャーに過ぎない者にあまり関心を寄せて下さるのは困ります。私の用事はただメッセージをお届けすることでしかないのです。地上の人間はこれまで余りにも永いこと教えそのものよりも教えを説く人物に関心を向け過ぎております。
そしてその人物を誇大に評価し、祭るべきでない地位に祭り上げ、肝心の教えそのものを忘れております。

(27)

私の使命は一個の男女を権威ある地位に祭り上げることではありません。真理と知識と叡智を啓示することです。
私の申し上げることに真理の刻印が押してありさえすれば、私という人物が地上で大変高い地位にあった者か卑しい身の上の者であったかはどうでもよいことではないでしょうか。名前・権威・書物、そんなものはもうどうでもよろしい。私が訴えるのは理性のみです。

(28)

私たちはもはや書物や人物や権威を拠り所とは致しません。神から授かっている理性、これを拠り所とし、これに訴えかけます。真理というものは〝神聖〟のスタンプを押されている書物から文句を引用することで広まるものではありません。理性が納得しないといけません。
もしも私の述べることがあなたの理性にそぐわない時は、あっさりと拒絶なさってください。しかし同時に、私の申し上げていることが人間の最高にして最上の本能に訴えていること、古い時代からの誤った知識を取り除いて、人間にとって大切な霊的真理をお届しようとしていることも分かっていただけるでしょう。
地上で宗教と呼ばれているものは真理を基盤としなければなりません。そして理性の攻撃に耐えきれないものは棄て去らないといけません。

 

シルバーバーチの祈り


神よ、あなたは法則です。叡智です。愛です。知識です。インスピレーションです。私たちがあなたを讃美するのは、あなたが全生命の大中心であらせられるからにほかなりません。あなたあっての生命であり、あなたなくして生命は存在しません。
あなたは全生命にみなぎり、あなたの法則が全存在を支え、全存在を包摂しております。あなたは私たち人類のすべてにあなたの霊の一部を賦与され、それが地上の人類のすべてをあなたと結びつけております。
 
それゆえに、ああ神よ。私たちは決して生まれながらにして罪深き存在などではなく、それゆえの恐れから膝を折ってあなたに阿(オモネ)ることもなく、私たちはあなたの一部であり、同時にあなたは私たちの一部であるとの認識のもとに、浩然の気を持って祈ります。
あなたの子として私どもはあなたの霊性を宿し、それが常により高い顕現を求めて、私たちを通じて摂理を成就せんと致しております。

神よ。こうして地上の子等に霊的次元の摂理を啓示する機会をお与え下さったことに深く感謝いたします。この機会のお陰で私たちは地上の子等との協力のもとに、あなたの驚異的計画を披露することができます。全人類に、彼らが地上という物質の世界に置かれていることの意義を理解させてあげることができます。
正しい知識によって無知をなくさせることができます。霊力によって人間的煩悩を駆逐させることができます。光明によって地上の暗黒を明るく照らし、苦しみと悲劇を喜びと幸福によって置き換えさせることができるのでございます。
                                                   






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