再生の原理
シルバーバーチの霊訓 四
三章 再生の原理
〝再生〟───生れ変わりはスピリチュアリストの間でも議論の的となっている問題で、とかく意見が食い違うことがある。
シルバーバチはこれを全面的に肯定するスピリットの一人であるが、ただ従来の輪廻転生説にみられる機械的な生の繰り返しでは無く、進化の為の埋め合わせを目的とし、
しかも生まれ変わるのは同一霊の別の意識層であるとする。次がそれについての問答である。
🕊
意識が部分的に分かれて機能することが可能なのでしょうか。
「今のあなたという意識とは別に、同じくあなたと言える大きな意識体があります。それのホンの一部(分霊)がいま地上という物質界でそのあなたを通じて表現されているわけです。そして、あなたの他にも同じ意識体を構成する分霊が別の世界で表現されております」
🕊
個々が独立しているのでしょうか。
「いいえ、独立はしていません。あなたも他の分霊も一個の中心霊の側面です。
つまり全体を構成する一部であり、それぞれがさまざまな媒体を通して自我を表現しており、時おりその分霊どうしが合体することもあります。
ですから、分霊どうしが霊的に無縁というわけではありませんが、互いに意識するのは何らかの媒体を通して自己表現し始めてからのことです。そのうち合流点にたどり着いて、最終的には全体として一つに再統一されます」
🕊
その分霊どうしが地上で会っていながらそうと気づかないことがあるのでしょうか。
「中心霊を一つの大きな円として想像してください。その円を構成する分霊が離ればなれになって中心核のまわりを回転しています。時おり分霊どうしが会ってお互いが共通の円の中にいることを認識し合います。そのうち回転しなくなり、各分霊がそれぞれの場を得て再びもとの円が完成されます」
🕊
二つの分霊が連絡し合うことができますか。
「必要があればできます」
🕊
二つの分霊が同時に地上に誕生することがありますか。
「ありません。全体の目的に反することだからです。個々の意識であらゆる界層での体験を得るということが本来の目的です。同じ界層へもう一度戻ることがあるのは、それなりに成就すべき(埋め合わせをすべき)ことが残っている場合に限られます」
🕊
個々の意識はみずからの進化にみずからが責任を負い、他の分霊の体験による恩恵は受けないというのは本当でしょうか。
「そのとおりです。個々の霊は一つの中心霊の構成分子であり、さまざまな形態で自我を表現しているわけです。進化するにつれて小我が大我を意識していきます」
🕊
そうして進化のある一点においてそれらの小我が一体となるわけですね。
「そうです。無限の時を経てのことですが・・・」
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個々の小我の地上への誕生は一回きり、つまり大我としては再生の概念は当てはまっても小我には再生はないという考えは正しいでしょうか。
「それは成就すべき目的いかんに関わる問題です。同じ小我が二度も三度も再生することがあります。ただしそれは特殊な使命のある場合に限られます」
🕊
一つの意識体の個々の部分、というのはどういうものでしょうか。
「これは説明の難しい問題です。あなた方には〝生きている〟ということの本当の意味が理解できないからです。実はあなた方にとっての生命は実質的には最も下等な形態で顕現しているのです。
そのあなた方には生命の実体、あなた方に思いつくことのできるものすべてを超越した意識を持って生きる、その言語を絶した生命の実情はとても想像できないでしょう。
宗教家が豁然大悟したといい、芸術家が最高のインスピレーションに触れたといい、詩人が恍惚たる喜悦に浸ったといっても私たち霊界の者から見れば、それは実在のかすかなカゲを見たにすぎません。
鈍重なる物質によってその表現が制限されているあなた方に、その真実の相、生命の実相が理解できない以上、意識とは何か、なぜ自分を意識できるのか、といった問いにどうして答えられましょう。
私の苦労を察してください。譬えるものがちゃんとあればどんなにか楽でしょうが、地上にはそれが無い。あなた方にはせいぜい光と影、日向と日陰の比較ぐらいしかできません。虹の色は確かに美しい。
ですが、地上の言語で説明できないほどの美しい霊界の色彩を虹に譬えてみても、美しいものだという観念は伝えられても、その本当の美しさは理解してもらえないのです」
🕊
再生は自発的なものでしょうか。それとも果たすべき目的があってやむを得ず再生するのでしょうか。
「そのいずれの場合もあります」
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ということは、つまり強制的ということですね。
「強制的という言葉の意味が問題です。誰かに再生しろと命令されるのであれば強制的と言ってもいいでしょうが、別にそういう命令が下るわけではありません。ただ地上で学ばねばならない教訓、果たすべき仕事、償うべき前世での過ち、施すべきでありながら施さなかった親切、こうしたものを明確に自覚するようになり、今こそ実行するのが自分にとって最良の道だと判断するのです」
🕊
死後は愛の絆のある者同士が生活を共にすると聞いておりますが、愛する者が再生していったら残った者との間はどうなるのでしょうか。
「別に問題はありません。物的な尺度で物ごとを考えるからそれが問題であるかに思えてくるのです。何度も言っていることですが、地上で見せる個性は個体全体からすればホンの一部分に過ぎません。私はそれを大きなダイヤモンドに譬えています。
一つのダイヤモンドには幾つかの面があり、その内の幾つかが地上に誕生するわけです。すると確かに一時的な隔絶が生じます。つまりダイヤモンドの一面と他の面との間には物質という壁ができて一時的な分離状態になることは確かです。が、愛の絆のあるところにそんな別れは問題ではありません」
🕊
霊魂は一体どこから来るのですか。どこかに魂の貯蔵所のようなものがあるのでしょうか。地上では近頃産児制限が叫ばれていますが、作ろうと思えば子供は幾らでも作れます。でもその場合、魂はどこから来るのでしょうか。
「あなたのご質問には誤解があるようです。あなたがた人間が霊魂をこしらえるのではありません。人間がすることは霊魂が自我を表現するための器官を提供することだけです。生命の根源である〝霊〟は無限です。無限なるものに個性はありません。
その一部が個体としての表現器官を得て地上に現われる。その表現器官を提供するのが人間の役目なのです。霊は永遠の存在ですから、あなたも個体に宿る以前からずっと存在していたわけです。しかし個性を具えた存在、つまり個体としては受胎の瞬間から存在を得ることになります。
霊界にはすでに地上生活を体験した人間が大勢います。その中にはもう一度地上へ行って果たさねばならない責任、やり直さなければならない用事、達成しなければならない仕事といったものを抱えている者が沢山います。そして、その目的のためのチャンスを与えてくれる最適の身体を求めているのです」
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人間の霊も原始的段階から徐々に進化してきたものと思っていましたが・・・。
「そうではありません。それは身体について言えますが霊は無始無終です」
🕊
古い霊魂と新しい霊魂との本質的な違いはどこにありますか。
「本質的な違いは年輪の差でしょう。当然のことながら古い霊魂は新しい霊魂より年上ということです」
🕊
類魂の一つひとつを中心霊の徳性の表現とみてもいいでしょうか。
「それはまったく違います。どうも、こうした問いにお答えするのは、まるで生まれつき目の不自由な方に晴天の日のあの青く澄みきった空の美しさを説明するようなもので、譬えるものがないのですから困ります」
🕊
それはマイヤースの言う類魂と同じものですか。
「まったく同じものです。ただし、単なる類魂の寄せ集めとは違います。大きな意識体を構成する集団で、その全体の進化のために各自が体験を求めて物質界にやって来るのです」
🕊
その意識の本体に戻った時各霊は個性を失ってしまうのではなかろうかと思われるのですが・・・・・。
「川が大海へ注ぎ込んだとき、その川の水は存在が消えてしまうのでしょうか。オーケストラが完全なハーモニーで演奏している時、例えばバイオリンの音は消えてしまうのでしょうか」
🕊
なぜ霊界の方から再生の決定的な証拠を提供してくれないのでしょうか。
「霊言という手段によっても説明しようのない問題に証拠などありえるでしょうか。意識に受け入れ態勢が整い、再生が摂理であることが明確になって初めて事実として認識されるのです。再生はないと言う者が私の世界にもいるのはそのためです。
まだその事実を悟れる段階にまで達していないからそう言うに過ぎません。宗教家がその神秘的体験をビジネスマンに語ってもしょうがないでしょう。芸術家がインスピレーションの体験話を芸術的センスのない人に聞かせてどうなります。意識の段階が違うのです」
🕊
再生するということが自分で分かるのでしょうか。
「魂そのものは本能的に自覚します。しかし知的に意識するとはかぎりません。神の分霊であるところの魂は、永遠の時の流れの中で一歩一歩、徐々に表現を求めています。が、どの段階でどう表現してもその分量は僅かであり、表現されない部分が大半を占めています」
🕊
では無意識のまま再生するのでしょうか。
「それも霊的進化の程度次第です。ちゃんと意識している霊もいれば意識しない霊もいます。魂が自覚していても、知覚的には意識しないまま再生する霊もいます。これは生命の神秘中の神秘にふれた問題で、とてもあなた方の言語では説明しかねます」
🕊
生命がそのように変化と進化を伴ったものであり、生れ変わりが事実だとすると、霊界へ行っても必ずしも会いたい人に会えないことになり、地上で約束した天国での再会が果たせないことになりませんか。
「愛は必ず成就されます。なぜなら愛こそ宇宙最大のエネルギーだからです。愛は必ず愛する者を引寄せ、また愛する者を探し当てます。愛する者同志を永久に引き裂くことは出来ません」
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でも再生を繰り返せば互いに別れ別れの連続ということになりませんか。これでは天上の幸せの観念と一致しないように思うのですが。
「一致しないのはあなたの天上の幸せの観念と私の天上の幸せの観念の方でしょう。宇宙及びその法則は神が拵えたのであって、その子供であるあなた方が拵えるのではありません。賢明なる人間は新しい事実を前にすると自己の考えを改めます。自己の考えに一致させるために事実を曲げようとしてみても所詮は徒労に終わることを知っているからです」
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これまで何回も地上生活を体験していることが事実だとすると、もう少しはましな人間であってもいいと思うのですが・・・。
「物質界にあっても聖人は聖人ですし、最下等の人間は何時までも最下等のままです。体験を積めば即成長というわけにはいきません。要は魂の進化の問題です」
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これからも無限に苦難の道が続くのでしょうか。
「そうです。無限に続きます。なんとなれば苦難の試練を経て始めて神性が開発されるからです。ちょうど金塊がハンマーで砕かれ磨きをかけられて初めてその輝きを見せるように、神性も苦難の試練を受けて始めて強く逞しい輝きを見せるのです」
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そうなると死後に天国があるということが意味がないのではないでしょうか。
「今日あなたには天国と思えることが明日は天国とは思えなくなるものです。というのは真の幸福というものは今より少しでも高いものを目指して努力するところにあるからです」
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再生する時は前世と同じ国に生まれるのでしょうか。例えばインディアンはインディアンに、イギリス人はイギリス人に、と言う具合に。
「そうとは限りません。目指している目的のために最も適当と思われる国、民族を選びます」
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男性か女性かの選択も同じですか。
「同じです、必ずしも前生と同じ性に生まれるとは限りません」
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死後、霊界へ行ってから地上生活の償いをさせられますが、さらに地上に再生してから又同じ罪の償いをさせられるというのは本当ですか。神は同じ罪に対して二度も罰を与えるのですか。
「償うとか罰するとかの問題ではなくて、要は進化の問題です。つまり学ぶべき教訓が残されているということであり、魂の教育と向上という一連の鎖の欠けている部分を補うということです。
生まれ変わるということは必ずしも罪の償いのためとは限りません。欠けているギャップを埋める目的で再生する場合がよくあります。もちろん償いをする場合もあり、前世で学ぶべきでありながらそれを果たせなかったことをもう一度学びに行くという場合もあります。罪の償いとばかり考えてはいけません。
ましてや二度も罰せられるということは決してありません。神の摂理を知れば、その完璧さに驚かされるはずです。決して片手落ちということがないのです。完璧なのです。神そのものが完全だからです」
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自分は地上生活を何回経験している、ということをはっきりと知っている霊がいますか。
「います。それが分かるようになる段階まで成長すれば自然にわかるようになります。光に耐えられるようになるまでは光を見ることはできないのと同じです。名前を幾つかあげても結構ですが、それでは何の証拠にもなりますまい。何度も言ってきましたように、再生の事実は〝説く〟だけで十分なはずです。
私は神の摂理について私なりに理解した事実を述べているだけです。知っている通りを述べているのです。私の言うことに得心がいかない人がいても、それは一向にかまいません。
私はあるがままの事実を述べているだけですから。人が受け入れないからといって、別にかまいません。私と同じだけの年数を生きられたら、その人もきっと考えが変わることでしょう」
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再生問題は問題が多いから、それを避けて、死後の存続ということだけに関心の的を絞るという考えは如何でしょう。
「闇の中にいるよりは光の中にいる方がよろしい。無知のままでいるよりは摂理を少しでも多く知った方がよろしい。何もしないでじっとしているよりは、真面目に根気よく真理の探究に励む方がよろしい。向上を目指して奮闘するのが良いに決まっています。死後存続の事実は真理探究の終着駅ではありません。
そこから始まるのです。自分が神の分霊であること、それ故に何の苦もなく、何の変化もなく〝死〟の関門を通過できるという事実を理解したとき、それで全てがおしまいになるのではありません。そこから本当の意味で〝生きる〟ということが始まるのです」
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新しい霊魂はどこから来るのですか。
「その質問は表現の仕方に問題があります。霊魂はどこから来るというものではありません。霊としてはずっと存在していたし、これからも永遠に存在します。生命の根源であり、生命力そのものであり、神そのものなのです。
聖書でも〝神は霊なり〟と言っております。ですからその質問を、個性を与えた霊魂はどこから来るのか、という意味に解釈するならば、それは受胎の瞬間に神の分霊が地上で個体としての表現を開始するのだ、とお答えしましょう」
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ということは、われわれは神という全体の一部だということですか。
「その通りです。だからこそあなた方は常に神と繋がっていると言えるのです。あなたという存在は決して切り捨てられることはあり得ないし、消されることもあり得ないし、破門されるなどということもあり得ません。生命の根源である神とは切ろうにも切れない、絶対的な関係にあります」
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でも、それ以前にも個体としての生活はあったのでしょう。
「これまた用語の意味が厄介です。あなたのおっしゃるのは受胎の瞬間から表現を開始した霊魂はそれ以前にも個体としての生活があったのではないか、という意味でしょうか。その意味でしたら、それはよくあることです。
但し、それは今地上で表現し始めた個性と同じではありません。霊は無限です。無限を理解するには大変な時間を要します。」
🕊
再生するに際して過ちのないように指導監督する官庁のようなものが存在するのでしょうか。
「こうした問題は全て自然法則の働きによって解決されます。再生すべき人は自分でそう決心するのです。つまり意識が拡大し、今度再生したらこれだけの生長が得られるということがわかるようになり、それで再生を決意するのです。再生専門の機関や霊団がいるわけではありません。全て魂自身が決めるのです。」
🕊
再生するごとに進歩するのでしょうか。時には登りかけていた階段を踏み外して一番下まで落ちるというようなこともあるのでしょうか。
「すべての生命、特に霊的な生命に関するかぎり、常に進歩的です。今は根本的な霊性についてのみ述べています。それが一ばん大切だからです。一たん神の摂理に関する知識を獲得したら、それを実践するごとに霊性が生長し、進歩します。進歩は永遠に続きます。なぜなら、完全なる霊性を成就するには永遠の時間を要するからです。」
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先天性心臓疾患の子や知能障害児は地上生活を送っても何の教訓も得られないのではないかと言う人がいます。私たちスピリチュアリストはこうした難しいことは神を信じて、いずれは真相を理解する時が来ると信じているわけですが、疑い深い人間を説得するいい方法はないものでしょうか。
「疑い深い人間につける薬はありません。何でも疑ってかかる人は自分で納得いくまで疑ってかかればよろしい。納得がいけばその時初めて疑いが消えるでしょう。
私は神学者ではありません。宗教論争をやって勝った負けたと言い争っている御仁とは違います。
すべては悟りの問題です。悟りが開ければ、生命の神秘の理解がいきます。もっとも、全てを悟ることはできません。全てを悟れるほどの人なら地上には来ないでしょう。地上は学校と同じです。
少しずつ勉強し、知識を身につけていくうちに、徐々に霊性が目覚めていきます。すると更に次の段階の真理を理解する力がつくわけです。それが人生の究極の目的なのです。激論し合ったり、論争を求められたりするのは私はごめんこうむります。
私はただこれまで自分が知り得たかぎりの真理を説いて教えてさし上げるだけです。お聞きになられてそれはちょっと信じられないとおっしゃれば、そうですか。それは残念ですねと申し上げるほかはありません。」
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霊にいくつかの側面があり、その内の一つが地上に生れ、残りは他の世界で生活することもあり得る、という風におっしゃいましたが、もう少し詳しく説明していただけませんか。
「私たち霊界の者は地上の言語を超越したことがらを、至ってお粗末な記号にすぎない地上の言語でもって説明しなくてはならない宿命を背負っております。
言語は地上的なものであり、霊はそれを超越したものです。その超越したものを、どうして地上的用語で説明できましょう。
これは言語学でいう意味論の重大な問題でもあります。
私に言わせれば、霊とはあなた方のいう神 God 、私のいう大霊 Great Spirit の一部分です。あなた方に理解のいく用語で表現しようにも、これ以上の言い方は出来ません。生命力 life force 動力 dynamic、活力 vitality、本質 real essence、神性 divinity、それが霊です。
かりに私が〝あなたはどなたですか〟と尋ねたらどう答えますか。〝私は〇〇と申すものです〟などと名前を教えてくれても、あなたがどんな方か皆目分かりません。
個性があり、判断力を持ち、思考力を具え、愛を知り、そして地上の人間的体験を織りなす数々の情緒を表現することの出来る人、
それがあなたであり、あなたという霊です。その霊があるからこそ肉体も地上生活が営めるのです。
霊がひっこめば肉体は死にます。霊そのものに名前はありません。神性を具えているが故に無限の可能性を持っています。無限ですから無限の表現も可能なわけです。
その霊にいつくかの面があります。それを私はダイヤモンドに譬えるわけです。それぞれの面が違った時期に地上に誕生して他の面の進化のために体験を求めるのです。
もしも二人の人間が別格に相性がいい場合、それは同じダイヤモンドの二つの面が同じ時期に地上に誕生したということが考えられます。
そうなると当然、二人の間に完全なる親和性があるわけです。調和のとれた全体の中の二つの部分なのですから。これは再生の問題に発展していきます」
🕊
あなたがダイヤモンドに譬えておられるその〝類魂〟について、もう少し説明していただけませんか。それは家族関係のグループですか、同じ霊格を具えた霊の集団ですか、それとも同じ趣味を持つ霊の集まりですか。あるいはもっとほかの種類のグループですか。
「質問者がファミリーという言葉を文字通りに解釈しておられるとしたら、つまり血縁関係のある者の集団と考えておられるとすれば、私のいう類魂はそれとはまったく異なります。
肉体上の結婚に起因する地上的姻戚関係は必ずしも死後も続くとは限りません。
そもそも霊的関係というものは、その最も崇高なものが親和性に起因するものであり、その次に血縁関係に起因するものが来ます。
地上的血縁関係は永遠なる霊的原理に基づくものではありません。類魂というのは、人間性にかかわった部分にかぎって言えば、霊的血縁関係ともいうべきものに起因した霊によって構成されております。
同じダイヤモンドを形づくっている面々ですから、自動的に引き合い引かれ合って一体となっているのです。その大きなダイヤモンド全体の進化のために個々の面々が地上に誕生することは有り得ることですし、現にどんどん誕生しております」
🕊
われわれ個々の人間は一つの大きな霊の一分子ということですか。
「そういってもかまいませんが、問題は用語の解釈です。霊的には確かに一体ですが、個々の霊はあくまで個性を具えた存在です。その個々の霊が一体となって自我を失ってしまうことはありません」
🕊
では今ここに類魂の一団がいるとします。その個々の霊が何百万年かの後に完全に進化しきって一個の霊になってしまうことは考えられませんか。
「そういうことはあり得ません。なぜなら進化の道程は永遠であり、終わりが無いからです。完全というものは絶対に達成されません。一歩進めば、さらにその先に進むべき段階が開けます。聖書に、己を忘れる者ほど己を見出す、という言葉があります。これは個的存在の神秘を説いているのです。
つまり進化すればするほど個性的存在が強くなり、一方個人的存在は薄れていくということです。
おわかりですか。個人的存在というのは地上的生活において他の存在と区別するための、特殊な表現形式を言うのあり、個性的存在というのは霊魂に具わっている神的属性の表現形式を言うのです。
進化するにつれて利己性が薄れ、一方、個性はますます発揮されていくわけです」
シルバーバーチ
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