なぜ生まれてきたのか
※続きです。
人生の目的は至って単純です。霊の世界から物質の世界へ来て、再び霊の世界へ戻った時にあなたを待ち受けている仕事と楽しみを享受する資格を身につけるために、さまざまな体験を積むということです。そのための道具としての身体をこの地上で授けてもらうというわけです。
この地上があなたにとって死後の生活に備える絶好の教訓を与えてくれる場所なのです。その教訓を学ばずに終われば、地上生活は無駄になり、次の段階へ進む資格が得られないことになります。このことは地上だけでなく、私どもの霊の世界でも同じことです。
毛を刈り取られたばかりの羊は冷たい風に当たらないようにしてやるものです。神の帳簿は一銭の間違いもなく収支が相償うようになっております。つまり人間の行為の一つひとつについて、その賞と罰とが正確に与えられます。これを別の言い方をすれば、原因があれば必ずそれ相当の結果があるということです。
いかなる苦難にもそれ相当の償いがあり、体験を積めばそれ相当の教訓が身に付きます。片方無くして他方は有り得ません。体験もせずにどうして教訓が得られましょう。そして教訓を学んだ時から、その教訓を生かす義務が生じます。
何も知らずに犯した罪よりも、悪いと知りつつ犯した罪の方が重いに決まっています。
あなた方は内部に完全性を秘めそれを発揮せんとしている未完の存在です。地上生活においては物質と霊との間がしっくりいかず常に葛藤が続いている以上、あなた方は当然のことながら罪を犯すことになります。私はこれを〝過ち〟と呼ぶ方を好みます。
もし過ちを犯さなくなったら、地上にも私どもの世界にも誰一人存在しなくなります。あなた方が地上という世界に来たのは、霊的な力と物質的な力との作用と反作用の中においてこそ内部の神性が発揮されていくからです。
光を有難いと思うのは蔭と暗闇を体験すればこそです。晴天を有難いと思うのは嵐を体験すればこそです。物事の成就を誇りに思えるのは困難があればこそです。平和が有難く思えるのは闘争があればこそです。このように人生は対照の中において悟っていくものです。もしも辿る道が単調であれば開発は無いでしょう。さまざまな環境の衝突の中にこそ内部の霊性が形成され成熟していくのです。
時として人生が不公平に思えることがあります。ある人は苦労も苦痛も心配もない人生を送り、ある人は光を求めながら生涯を暗闇の中で生きているように思えることがあります。しかしその観方は事実の反面しか見ておりません。まだまだ未知の要素があることに気づいておりません。
私はあなた方に較べれば遥かに長い年月を生き、宇宙の摂理の働き具合を遥かに多く見てきましたが、私はその摂理に絶対的敬意を表します。なぜなら、
神の摂理がその通りに働かなかった例を一つとして知らないからです。こちらへ来た人間が〝自分は両方の世界を体験したが私は不公平な扱いを受けている〟などと言えるような不当な扱いを受けている例を私は一つも知りません。神は絶対に誤りを犯しません。
もしも誤りを犯すことがあったら宇宙は明日という日も覚束(オボツカ)ないことになります。あなた方が誕生する遥か以前から地球は存在し、あなた方が去った後も延々と存在し続けます。
何億年の昔、まだ地上に何一つ生物の存在しなかった時から太陽は地球を照らし続け、人間が誰一人居ない時からエネルギーをふんだんに放射し続け、そのおかげで石炭その他の、太陽エネルギーの貯蔵物を燃料とすることが出来ているのです。何と悠長な教訓でしょう。
せっかちと短気はいけません。せっかくの目的を台無しにします。内部から援助してくれる力は静穏な環境を必要とします。物事には一つの枠、つまりパターン(型)があり、そのパターンに沿って摂理が働きます。宇宙の大霊も、自ら定めた摂理の枠から外れて働くことは出来ないのです。指導と援助を求める時はそれなりの条件を整えなくてはいけません。そのためには、それまでの経験を活用しなくてはいけません。
それが魂にとっての唯一の財産なのです。そして自分に生命を賦与してくれた力がきっと支えてくれるという自信を持つことです。あなたはその力の一部なのであり、あなたの魂に内在しているのです。
正しい条件さえ整えば、その神性は、神からの遺産として、あなたに人生の闘いを生き抜くあらゆる武器を用意してくれます。せっかちと短気はその自由闊達な神性のほとばしりの障害となるのです。
故にあなた方は常にリラックスし、受身的で穏やかで平静で、しかも奥に自信を秘めた状態であらねばなりません。その状態にある限り万事がうまくいき、必要とするもの全てが施されるとの確信を持たなければいけません。安易な人生からは価値あるものは得られません。困難な人生からのみ得られるのです。神は決してあなた方を見捨てません。
見捨てるのはあなた方の方です。あなた方が神を見捨てているのです。困難に直面した時、その神の遺産を結集し、必ず道は開けるのだという自信を持つことです。不動の信念を持てば道は必ず開かれます。これはすでに私が何年にもわたって説いてきたことです。真実だからです。実践してみればその通りであることを知ります。物質は霊の僕です。
霊は物質の僕では無いのです。身体がひとりで呼吸し動いているのではありません。霊がいなかったら身体は生きておれません。現に、霊が去れば身体は朽ち果てるのみです。
霊性を悟ることは容易なことではありません。もし容易であれば価値は有りません。その道に近道は有りません。王道は無いのです。各自が自分で努力し自分で苦労をしなくてはなりません。しかし同時にそれは登るにつれて喜びの増す、素晴らしい霊的冒険でもあるのです。
シルバーバーチ
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