シルバーバーチの言葉 ── 神・宗教


●神 (大霊)


神とは宇宙の自然法則のことです。神とは、物質世界であれ霊的世界であれ、そこに存在するすべてのいのちを支えている創造力です。神とは完全な愛であり完全な叡智です。神とは、あなた方が知っているこのちっぽけな地球や、まだ地上では未知の天空を含めて、大宇宙の隅々まで、あまねくしろしめす存在です。神はすべてのいのちを満たしています。神はすべてのものに内在しています。神はすべての法則の内にあります。神は神です。神は愛です。神はすべてです。


●神とは何でしょうか───

「神の概念を完全にお伝えすることは不可能です。神は無限です。一方、言語や概念、心象といったものはどうしても限界があります。小なるものが大なるものを包みこむことは出来ません。が、宇宙をご覧になれば、ある程度まで神についての概念をつかむことが出来ます。
この大宇宙は法則によって規制されているのです。千変万化の諸相を見せていながら、その一つ一つに必ず配剤がなされているのです。見えないほど小さいものであっても、途方もなく巨大なものであっても、動き、呼吸し、存在しているものはすべて自然法則によって支配されているのです。
何一つとして法則のワクからはみ出るものはありません。四季は順序よく巡り、地球は地軸上を回転し、汐は満ちては返します。種子を蒔けばその中にあったものが芽を出すのです。自然は正直なのです。法則は絶対です。新しい発見も、それが何であれ、どこであれ、やはり同じ自然法則のもとで統制されているのです。何一つ忘れられることはありません。何一つ見落とされることはありません。何一つ無視されることはありません。何の力でそうなっているのか。それは限りある存在ではありません。尊大にかまえた人間的存在ではありません。旧約聖書に出てくるエホバ神でもありません。復讐心に燃え、機嫌を損ねると人間に災いをもたらすような神ではありません。気まぐれで、いつ腹を立てるか分からないような神ではありません。
歴史と進化のあとをご覧になれば、地球が徐々に前に向かって、あるいは上に向かって進んでいることが分かります。ということは、その背後の力は善の力だということを示しているわけです。
すべてを支配し、すべてを統制し、すべてを指揮し、すべての中に存在する、その無限の愛と叡智の権化としての神の概念を、あなたがたも少しずつ理解してまいります。それを私は〝大霊〟と呼んでいるのです」


大霊(神)とは法則です。それを悟ることが人生最大の秘密を解くカギです。なぜなら世の中が不変不滅・無限絶対の法則によって支配されていることを知れば、すべてが公正に裁かれ、誰一人としてこの宇宙から忘れ去られることがありえないことを悟るからです。


神とは宇宙の法則のことで、あらゆるもの統帥しています。宇宙の法則はすべてを支配しているのです。宇宙には、この宇宙の法則の支配を免れて存在するものは何一つありません。地上では、地震や嵐や雷などがあなたのような人々にこのような疑問を持たせることを私も知っています。しかし、それらもすべて宇宙の一部なのです。宇宙のなかであなた方が進化しているのと同じように、宇宙も進化を続けています。この地上世界はまだ完全からはほど遠い存在ですし、完全に到達することもないでしょう。ただ、一段一段と進化していくだけです。


神とは非人間的存在でありながら同時に人間性のすべてを表現する存在です。これは、あなた方には理解できないでしょう。神はすべての生命の中に宿っています。その生命が人間という形で個別性を持つことによって、神は森羅万象を支配する法則としてでなく、個性を持つ存在として顕現したことになります。
ですから神を一個の存在としてではなく、無限の知性と叡智と真理を備えた実在そのもの、人間に想像し得るかぎりの神性の総合的統一体と考えてください。それは男性でもなく女性でもなく、しかも男性であり女性でもあり、個性というものを超越しながら同時にあらゆる個性の中に内在しているものです。神は万物の内側にも外側にも存在しています。神から離れては誰一人存在できません。神から切り離されるということはありえないのです。あなたの中にも存在しますし、雨にも太陽にも花にも野菜にも動物にも、その他いかに小さいものでも、存在するかぎりはすべてのものに宿っているのです。
私が大霊と呼んでいるこの神の概念を伝えるのは至難の業です。あらゆるものを支配し、あらゆるものから離れず、存在するものすべてに内在している崇高な力です。


大霊は人間が考えるような意味での人物的存在ではありません。人間を大きく拡大したような存在ではありません。男性でもなく女性でもありません。大霊は宇宙最高の力、無限の知性、愛、慈悲、要するにありとあらゆる霊的資質の原理の総合的化身です。


神といわれるのは大宇宙の法則です。神はすべてのものに内在しており、万物は神です。魂は自分を知っているが故に、神も魂を知っています。雀は神なのです。だから神は雀を知っているのです。風にそよぐ木の葉にも神が宿っていますから、風にそよぐ木の葉も神です。地上であれ霊界であれ、宇宙であれ、地上ではまだ未知の天空であれ、どのような場所においても、神の法則が厳然として支配しています。何事もこの法則から離れて起こることはありません。ですから、神である自然法則の支配範囲にあるものは、すべて神に知られているのです。


宇宙の大霊である神はいかなることにも干渉いたしません。法則、大自然の摂理というものが存在し、これからも永遠に存在し続けます。摂理の働きを止めたり干渉したりする必要性が生じるような事態はかつて一度たりとも起きていませんし、これからも絶対におきません。
世の中の出来ごとは自然の摂理によって支配されており、神によるいかなる干渉も必要ありません。もし干渉がありうることになったら神が神でなくなります。完全でなくなり、混乱が生じます。


神の法則は完璧で、自動的に働きます。誰一人としてその法則から抜け出すことは出来ません。人間の自由意志でさえ神の法則の一部です。


宇宙のいずこにも───人間の知り得た範囲に留まらず人間の能力をはるかに超えた範囲においても───法則の行き届かないところはありません。その法則の中に神の意志が託されているのです。およそ人間のこしらえる法律というものには変化と改訂が付きものです。完全でなく、すべての条件を満たすものではないからです。が、神の摂理は考え得るかぎりのあらゆる事態に備えてあります。宇宙間に発生するもので不測の事態、偶然の出来事というものは一つもありません。全てが規制され、全てが統御され、全てに神の配慮が行き届いているのです。


宗教的建造物には、過去の無知な時代の産物に過ぎないものが、たくさんあります。
神は、いかなる建造物の中にも閉じ込められません。神は、どこにでも、あまねく存在しているのです。石を積み重ね、高い尖塔を立て、ステンドグラスの窓を取り付ければ、神が喜ばれると思っているようですが、そんなものよりも、太陽の恵みが子らの心を明るく照らし、雨が作物を実らせることの方が、神は、よほど喜ばれます。ところが、そうした恵みと子らとの間に、とかく宗教家と政治家と商売人が介在します。こうしたものこそ取り除かねばなりません。


宇宙を動かしている神の力、肉体に息を吹きかけて生命を与えた神の霊、全世界と全宇宙の法則を支配する神、すべての多種多様な形の生命に宿る神、いつの時代でも預言者や使徒たちに顕れてきた神、私たち一人ひとりに内在する神、常に私たちの背後から見守ってくれている神・・・・・、この神は、あなた方が教会で頭の上に水を振りかけられて礼を受けようが受けまいが、何の影響も受けません。
大切なことは、神の真理に従って、生きてきたかどうかということです。2,3滴、水を振り掛けられたからといって、神の法則をごまかすことはできません。神の法則を変えることはできないのです。蒔いた種は必ず刈り取らねばならないのです。


いかなる聖遺物を崇めてもいけません。ただひたすら大霊の摂理に従うように心がけるベきです。摂理こそが宇宙で最も大切なものだからです。宇宙の最高の権威は大霊の摂理です。


レンガはあくまでレンガです。建築物はあくまで建築物に過ぎません。そんなものを崇拝してはいけません。忠誠を捧げるべきものは宇宙の大霊すなわち神とその永遠不変の摂理です。


私たちが忠誠を尽くすのは、一つの教義ではなく、一冊の書物でもなく、一つの建造物でもなく、生命の大霊とその永遠なる摂理です。


神は神であり、その神の法則は完璧に働きます。完全者である神がその法則を創造しました。完全者が創造したこの法則の働きがが、もしほんの一時でも、止められるようなことがあれば、必ず大混乱が起こります。神にも予期できなかった出来事があって、それに対応するため神自身が創造の計画に手直しを加えていかねばならないようなことがあるとすれば、神はもはや完全者ではなくなります。神は不完全になってしまうのです。もしも神が、ある人だけに恩寵を与えて奇跡を起こすとしたら、その神は卑小な神にすぎず、全生命の無窮の霊ではなくなってしまいます。どうして彼らは、自分たちの貧弱な考えだけで、こんなにも神を矮小化してしまうのでしょうか。


霊の働きがあってこそ、すべてが存在できているのです。神の霊がすべてに潜在している以上、神との縁は切ろうにも切ることができないのです。人間がいかなる説を立てようと、神がすべてに宿り給い、したがって神はすべてであり、すべてが神であるという事実は変えることはできません。


神は、現在も、過去も、未来にも、いつでもおられます。すべての生命は神であり、神はすべての生命です。あなた方には創造する力はありません。ただ、あなた方が魂を磨けば磨くほど、浄化し進歩することはできます。


私たちは、神の法則の大切さを強く訴えているのです。真に理解さえすれば神の法則はあらゆる知識とも矛盾なく調和します。神の法則は、いかなる場合にも、科学者、哲学者、自由人その他、誰の心にも反発をもたらすことはありません。それは、永遠にして不変不易の、神の働きの上に築かれているからです。


財産への執着を捨てなさい。神の法則は完璧なのです。もしもあなたが自分の財産などより人に奉仕することだけを考えて生きていくなら、その時には必ず神があなたを助けてくれます。あなたであっても誰であっても、奉仕する人には必ず神のご加護があるのです。そんなことがあるものかといわれるなら、私はそれが事実であると断言します。奉仕こそが神の法則に沿った唯一の正しい生き方だからです。神の法則は完全無欠ですから誰もその法則から免れることはできません。ですから、神の法則を学びそれを実践することが何よりも大切です。


自分のことは考えずに、他人のために尽くそうとすればするほど、あなた方は自分に内在する神である魂を、それだけ余計に高めていくことになります。至って簡単なことなのです。それなのに、人々は、教会のようなものを建ててはわけの分からない説教をし、私にも理解できないことを長々としゃべり、宗教のためと称しては、堅苦しい儀式を重んじたりしています。
そんなことより私の言いたいのはつぎのことだけです。どうか皆さん、出て行って、倒れている人がおれば立ち上がらせてください。疲れている人には眠らせてあげてください。飢えた人には食べ物を、のどが渇いた人には水を、そして、暗闇で悩んでいる人には、新しい真理の光を与えてあげてください。そうすれば、偉大な神の愛の力があなた方を通じてはたらくことになるでしょう。


神の法則が十分に理解される時がくれば、神の園が目も当てられないほどに荒れ放題にされることもなく、神の子一人ひとりに、その美しさが楽しめるようになるでしょう。そのようにさせることが私たちの目的です。人類の魂を自由にし、精神を開放するばかりでなく、物質である身体にも、神の法則と調和して生きていくことができるように、私たちは努力しているのです。


私は、いつでも身を捧げて神の法則を教えようとしています。この地上の人間が、神が望まれるような生き方をすることができるようになるには、どうしても神の法則を理解していくほかはありません。眼が見えないよりは見えるほうがいいのです。耳が聞こえないよりは聞こえるほうがいいのです。眠らされているよりは目覚めているほうがいいのです。人々の魂を神に向かって開かせていくようにしましょう。神の法則に対して人々が進んで調和を求めていくように導いていきましょう。そのようにして、はじめて、人々は神と一つになり、神は人々と一つになるのです。
その時には、人々の心も魂も安らかになり、偉大な宇宙のリズムとも調和していくことになります。人々の生活からは不調和は消え去り、かつてない新しい生き方が始まっていくのです。



●宗教

私たちがこうして地上へ戻ってきたのは、
唯物思想が生み出してきた利己主義による不公正と、無知と迷信を助長させてきた誤った宗教的教義に終止符を打つためです。その両者が結びつくと、人類全体を包み込んでしまうほどの暗黒を生みだすことになります。が、今や正しい霊的真理の光が地上に根づき、もはやそれが根絶やしになることは有り得ません。


私たちが携わっている仕事には確固たる目的があります。意図があります。宇宙に絶対不変の摂理が存在することを証明するだけではありません。地上の人間に慰めを与え、霊的知識を広めるという目的もあるのです。物理的法則だけでなく霊的法則も存在することを証明してあげることも私たちの仕事の一環です。その仕事の前途に立ちはだかるのは、誤った宗教的教義によって築かれた巨大な組織です。何世紀にもわたって続いてきたものを元に戻さなくてはなりません。誤った教義を土台として築かれた上部構造を取り壊さなくてはならないのです。


永いあいだ地上世界を束縛してきたものとの闘いにおいて、私たちは一歩も後へは退きません。宗教の名のもとに築かれてきた教義とドグマと戒律の組織に対して闘いを挑んでいます。間違っているものは廃棄しなければならないのです。真実のものだけが生き永らえるのです。永いあいだ人間が崇めてきた大言壮語───霊感や啓示ではなく、ただの政策、とくに政治的政策からこしらえられたドグマは、どうあっても許すわけにはまいりません。


宗教についての真実を申せば、真理のすべてを説いている宗教などあり得ないということです。
どの宗教も、ほんのわずかな真理しか理解していません。しかも悲しいかな、そのわずかな真理さえ、永い年月のうちに歪められ、狂信家によって捏造されております。


真理を土台として真の宗教を築かねばなりません。大主教の宮殿で何を説こうと、大聖堂で何を説こうと、寺院、教会堂、礼拝堂、その他、世界中いかなるところで何を説こうと、それが今述べた単純な基本的真理と矛盾したものであれば、それは誤りです。極めて簡単な真理なのです。人生を霊的摂理が支配していること、お互いが扶けあうことが一ばん大切であること、それが霊を成長させ、性格を形成し、死後に待ち受ける新しい生活に霊的な備えを与えることになる───ただそれだけなのです。


地上には永い間、あまりにも多くの宗教が存在し、それぞれに異なる教えを説いてきました。しかし、それらの宗教が最も大切にしてきたものは、実際には何の価値もありません。いたずらに人類を分裂させ、障壁をつくり、国家間、さらには家族間にも無用の争いを招いてきました。論争を引き起こし、混乱と不調和を助長することばかり行ってきました。神の子供たちを一つに結びつけることに失敗してきたのです。


信条・ドグマ・教義・儀式・祭礼・ステンドグラス・祭壇・法冠・外衣───こうしたものが一体宗教と何の関係があるというのでしょう? 宗教とは霊性に関わるものです。全ての創造物に宿り、生命のあらゆるリズムと現象となって顕現している霊性、大自然のあらゆる側面に顕現し、人類の進歩のために寄与している理想主義者や改革者を鼓舞している霊性、それが一個の教義と何の関わりがあるのでしょうか。


基本的な教えがすべての宗教から、一つの例外もなく忘れ去られているのが事実ではないでしょうか? 膨大な量の教義と神学と教条主義───要するに宗教とは何の関係もない、そして宗教として全く価値のない、人間の勝手な説に置き換えられているのです。


いったい宗教とは何なのでしょう。教会や礼拝堂や寺院へ通うことでしょうか。人間のこしらえた教義を受け入れることでしょうか。私はローマカトリック教徒ですとか、プロテスタントですとか、仏教徒ですとか、ユダヤ教徒ですと名乗ることでしょうか。宗教とは宇宙の大霊すなわち神の御心に一歩でも近づくことになるような生き方をすることです。あなたの行為の中に神の御心が表現されることです。要するに宗教とは人のためになる行いをすることです。


儀式よりも生活の方が大切です。宗教とは儀式ではありません。人のために役立つことをすることです。本末を転倒してはいけません。〝聖なる書〟 と呼ばれている書物から活字のすべてを抹消してもかまいません。賛美歌の本から 〝聖なる歌〟 を全部削除してもかまいません。儀式という儀式をぜんぶ欠席なさってもかまいません。それでもなおあなたは、気高い奉仕の生活を送れば立派に 〝宗教的〟 で有りうるのです。そういう生活でこそ内部の霊性が正しく発揮されるからです。


地上の宗教家は、死の関門をくぐった信者は魔法のように突如として言葉では尽くせない程の喜悦に満ちた輝ける存在となって、一切の悩みと心配と不安から解放されるかに説いていますが、それは間違いです。真相とはほど遠い話です。死んで霊界へ来た人は───初期の段階においては地上にいた時と少しも変わりません。肉体を棄てた───ただそれだけのことです。個性は少しも変わりません。性格は全く一緒です。習性も特性も性癖も個性も地上時代そのままです。


キリスト教会との関係となると、これは厄介です。自分たちの教義こそ絶対的真理であると真面目に信じており、それをこのうえなく大事なものとして死守せんとしています。実際にはもともと霊的であった啓示が幾世紀もの時代を経るうちに人間的想像の産物の下に埋もれてしまっていることに気づいてくれないのです。中味と包装物との区別がつかなくなっているのです。包装物を後生大事に拝んでいるのです。


キリスト教の神学は、地上世界によってまさしく“災いのもと”です。人類にとって大きな手かせ・足かせとなっています。人々の魂を牢獄に閉じこめています。


地上界は、互いに奉仕し合うことによって成り立つような生活形態を目指さないといけません。それは本当はいたって簡単なことなのですが、なぜかそれが難しい形態となっております。その元凶が実は組織宗教なのです。
誠に残念なことですが、「神の使徒」をもって任ずるキリスト教の聖職者たちには一から学び直してもらわねばならないことが沢山あります。彼らは何の根拠もない基盤の上に神学体系を築き上げました。まさに「砂上の楼閣」です。それがスピリチュアリズムの真理の攻撃にあって危うく崩れそうになるのを必死に支えようとしているのです。
そもそも土台が間違っているのです。イエスなる人物を作り話で取り囲んでいるに過ぎません。そうすることでイエスをゴッドと同じ位の座に祭り上げたのですが、その根拠に何の正当性もありませんから、その非を指摘されると、理論的にはそれを撤回せざるを得ません。


私が非難しているのは“組織”です。組織が真理への道を閉ざし、古い慣習を温存し、精気みなぎる霊力が顕現するための場所を奪い去っているからです。そんな教会に、どうして霊力が顕現することができるでしょうか。


イエスを崇拝の対象とするのは間違いです。崇拝の念は大霊に捧げるべきであって、大霊の使者に捧げるべきではありません。


教会で説教している人たちはいつの日かその間違いをご破算にしなければなりません。いかなる人間も摂理の働きかけから逃れることはできません。牧師といえども逃れることはできません。なかんずく霊の声を聞いた者はなおさらのことです。間違っていると知りつつ改めることの出来ない者は、知らずに犯す者より重い責任を取らされます。


私たち霊界の者からの働きかけを信じず悪魔のささやきかけであると決めつけているキリスト教の聖職者たちは、その昔ナザレのイエスに同じ非難のつぶてを浴びせたユダヤ教の聖職者たちと同列です。


宗教の教義による束縛は、地上界の悲劇の一つです。それは重い疫病よりも悪質で、肉体の病気の苦しみよりも、はるかに酷い苦痛をもたらします。なぜならそれは“魂の病”を生み出し、霊に目隠しをしてしまうからです。


真理と時間とは必ずしも手を携えて進むものではありません。幼少時代に教え込まれ大切にしてきた信仰を捨て去るのが容易でないことは、私もよく承知しています。しかし、魂が真に自由になるためには、理性が納得しないものは潔く捨て去ることができるようでなくてはなりません。


地上界では指導者たちが重んじられてきました。そして過大評価され、“神学”という厄介なものをつくり出すことになりました。その神学が、科学者や思想家、そして精神だけは自由でありたい、理性が反発するものは受け入れたくないと思っている真っ正直な人々を困惑させることになりました。


私たちの霊訓が理解されていくにつれて地上の民族間の離反性が消えていくことでしょう。各国間の障壁が取り除かれていくことでしょう。民族的優劣の差、階級の差、肌色の違い、さらには教会や礼拝堂や寺院どうしの区別も無くなることでしょう。
それは、宗教には絶対的宗教というものはなく世界の宗教の一つひとつが宇宙の真理の一部を包蔵しており、自分の宗教にとって貴重この上ない真理が他の宗教の説く真理と少しも矛盾するものでないことを理解するように成るからです。 


●宗教とは何でしょうか?────


「宗教とは、同胞に奉仕することによって大霊に奉仕することです。本来の宗教は、地上の世俗的概念とはほとんど関係ありません。人間の魂に内在する神性を、地上生活において発揮させるものでなければなりません。自分と大霊とのつながり、そして自分と同胞とのつながりを強化するものでなければなりません。自分一人の世界に閉じこもらずに、広く同胞のために自分を役立てるように導くものでなければなりません。

宗教とは、人のために自分を役立てることであり、自分を役立てることが、すなわち宗教です。それ以外のこと(教義や儀式など)は、どうでもよろしい。

肉体が朽ちてしまえば、それまで後生大事にしていたもの、そのために争うことまでした教義のすべてが、空虚で無価値で無意味で無目的であったことを知ります。魂の成長を微塵も助長していないからです。魂の成長は、自分を役立てることによってのみ促進されるのです。」


真の宗教とは同胞に奉仕することによって大霊に奉仕することです。そのためには殿堂も牧師も僧侶も聖典もいりません。そうしたものは奉仕の精神を植え付け同胞への愛の心を強めることにならない限り、何の意味もありません。いつどこにいても人のために役立つことをすることです。同胞の重荷を軽くしてあげることです。それが宗教です。






●地上の人間としての心がけについて問われて────
 
私に言わせればそれは至って簡単なことであり、なぜ地上の人間がそれを難しく考えるのか理解に苦しみます。あなたも他のすべての人間と同様に、為すべき何らかの仕事があってこの物質界に誕生してこられたのです。ときには内省の時をもって、果たしてこれが自分にとっての本当の仕事なのだろうか、世の中を啓発する上で少しでも役に立っているだろうか、知識の蓄積を怠っていないだろうか、獲得した霊的真理を人に分け与える努力をしているだろうか、これで最善を尽くしていると言えるだろうか───正直に自分にそう問いかけてみることです。そうすればおのずと答えが出てまいります。
それだけでいいのです。自分に正直になり、最善を尽くす───それだけでいいのです。宗教的信条や教義などは必要ないのです。自分はいま何を為すべきかを素直に認識するだけでいいのです。その心掛けを日常生活で徹底させれば、決して道を誤ることはありません。この物質界に誕生してきた目的を成就させていることになるのです。

私たち霊界の者の目には、本当は存在してはならない暗闇の中で生きている何億、何十億とも知れぬ神の子の姿が見えます。荒れ果てたみじめな家屋で空腹と渇きに苦しみながら、生得の権利であり神からの遺産であるところの〝魂の自由〟を奪われた生活を送っております。
その一方には、己れの飽くなき貪欲を満たさんがためにそうした無数の同胞を虐げつづけることに知恵をしぼっている者もいます。そこで私は霊性に目覚めた方々に申し上げるのです───
勇気をもって闘いなさい。あらゆる不正、あらゆる闇、あらゆる横暴、あらゆる不公平と闘いなさい。(中略)
これが知識を伝達する手段をお持ちの方に私からお願いしていることです。私の言わんとしていることがお分かりですね。
為さねばならないことが沢山あります。あなたも含めて、死後存続の確証を得たいと望んでおられる方に申し上げたいのは霊的知識にめぐり合う機会すら得られない人が無数にいるということです。
あなたも私たちと同じ視野に立って地上世界をご覧になることです。そうした無数の人たちが、いずこへ向かうべきかも分からぬまま、疑念と不安を抱きつつ狼狽し、途方に暮れた生活を送っております。道を見失っております。と言って、永年にわたって権威があるかに思ってきた宗教はもはや信じられなくなっております。


われわれはこれまでに得た知識を土台とし信頼し合わなくてはいけません。基盤に間違いがないことを確信した上でなくてはいけません。そこから、ゆっくりと着実に、より高い道を目指して、手を取り合って開拓していきましょう。





 シルバーバーチの霊訓

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